大野城の整体なら「いで整骨院」痛みやシビレを根本改善!

北健二 ストーリー

1984年10月11日に福岡県福岡市西区姪浜で生まれました。

中学2年生の途中まで姪浜に、その後は長崎県五島に高校卒業まで住んでいました。

結婚し今は姪浜に住んでいます。

2023年で20歳になる長女、中学2年生の長男、小学5年生の次女がいます。

幼少期

いで整骨院・整体院スタッフの北 健二と申します。生まれは福岡市西区姪浜で

兄と8才差、姉と6才差で年が離れていたので、一人っ子のように過ごすことが多かったようです。一人遊びが得意で、母親は手が掛からなくて楽だったとよく話していました。

ただ、とてもボーッとしていて注意力がなかったので車に轢かれそうになることが多々あったそうです。そのせいで兄や姉は怖くて私と一緒に歩きたくないと言っていたそうです。

家族のおかげで何とか無事にこれまで生き延びました。
家の近くにあるときわ幼稚園には3年間通いました。ちょっかいを出してくる苦手なお友達がいたらしく、通い始めの頃はなかなか教室に入れなかったそうです。

バスで登園していましたが、母親に迎えに来てもらいたくて帰りのバスに乗らずにみんなを困らせていたらしいです。自分ではおぼろげな記憶しかありませんが…。

小学生時代

福岡市立姪浜小学校に入学しました。小学生になると持ち前?の注意力不足が顔を出してしまい、給食エプロンを忘れたり、傘を置き忘れたりは日常茶飯事でした。

挙句の果てにはランドセルを忘れて学校に行くこともありました。それでも飽き足らずにランドセルを学校に置き忘れて家に帰ったこともありました。しかも、担任の先生が電話して下さるまで全く気がついていなかったのです!

さすがに自分で自分にあきれてしまった記憶があります。

注意力の無さを心配した母から、心身を鍛える為に無理やりソフトボールクラブに入れられていました。

 

中学生時代

福岡市立姪浜中学校に入学してからは野球部に入部しました。ソフトボールクラブのチームメイト達に誘われて一緒に入部しました。

小学生の頃はソフトボールをさせられている感じでしたが、中学生になって野球というスポーツのことが少しずつ分かるようになってきて練習も楽しくできるようになっていました。

順調に中学校生活もスタートしていきましたが、中学2年生になってすぐに思いもしない出来事が起こりました。

祖母の病気と介護で福岡から長崎県五島に転校

突然の知らせでした。長崎の五島列島に住む父方の祖母が脳梗塞で倒れてしまったのです。命が助かったのは幸いでしたが、左半身が不自由になってしまい、介護が必要になってしまいました。

父は長男でもあるし、自分が面倒を見てあげたいということで実家に戻ることになったのです。兄は当時すでに大学生でしたから福岡に残り、4人で五島列島に引っ越すことになりました。

自分が引っ越して転校することがあるなんて想像したこともなかったので、当時は大丈夫だろうかと心配していました。

中学2年生の夏休み明け。ついに転校先の上五島中学校に登校する日がやってきました。転校生に対してみんなどんな反応をするのかな?と恐る恐る教室に入ったのを覚えています。

しかし、そんな心配はすぐに吹き飛ぶくらいクラスメイトのみんなは優しく話しかけてくれました。

部活も引き続き野球部に入り、楽しい中学校生活を送っていました。しかし、中学3年の夏の大会直前に体の異変が起こりました。

野球のやり過ぎで肩の故障に

異変が起きたのはある日のキャッチボール中でした。ボールを投げる瞬間に右肩の痛みを感じ始めたのです。

一時的な軽い痛みだろう、すぐ良くなるだろうと甘く見ていました。その後も練習を続けていましたが、良くなるどころか痛みは日に日に増していきました。

私はその頃外野手を主にしていましたが、最後の大会を終える頃には内野手にボールを返すのもやっと届くくらいしか投げられなくなっていました。

部活を引退してからようやく病院に行きましたが、無理にボールを投げ続けてしまったことで肩周辺の筋肉をひどく痛めてしまったということでした。

元のように治すのは難しいと言われてしまい落ち込んでいました。

右肩の痛みもあり、高校でも野球を続けるか悩んでいましたが、同じ中学校のチームメイトから高校でも野球部に入るという話を聞いていると自分もそれでもやってみたいという気持ちに傾いていきました。

 

高校時代

高校生になると学校生活も一段と忙しくなり、朝は7時半スタートの課外授業から部活を終えて家に着くのは21時過ぎでした。本当にあっという間の3年間だったという印象です。

高校野球の練習は厳しく、ついていくのもやっとでした。残念ながらレギュラーになることはできませんでした。

しかし肩の故障を抱えながら3年間なんとかやってきて、やりたい事が実現できない方の気持ちがわかるよい経験だったと今は思いますし、その時の辛い経験が目の前の患者さんを改善するための強い原動力になっています。そして当時にいで整骨院さんのような施術所が無かったのが悔しいです。

その後は宮崎大学工学部物質環境化学科を受験し、入学することができました。高校卒業後から初めて親元を離れ、宮崎で一人暮らしを始めました。

大学進学後、夢と現実のギャップに悩む

大学生になると自分の時間が増え、自分自身で考えて決めることが多くなりました。しかしせっかく大学に入ったものの夢と現実のギャップを感じ始め、その中で自分が大学でしていることが本当に自分が学びたいこと、本当に将来やりたいことなのかが分からなくなっていきました。

そう悩んでいた頃にたまたま友人に誘われてトレーニングジムに行きました。そこでトレーニングしていると、体型もどんどん変わっていき、成果が出ることでますます夢中になっていきました。

自分の道を見つける

そこでふと高校の時に、肩の故障の辛さから怪我や不調を改善するスポーツトレーナーになりたいなとおぼろげに考えていたことを思い出しました。
その当時はスポーツの実績も何もない自分にはなれないだろうと思い、進路として頭には浮かびませんでしたが・・・

トレーニングジムに通い続けていると、スポーツトレーナとはスポーツをする選手の怪我の回復だけではなく、一般の方のダイエットや健康維持のための指導をしたり多くの方のための仕事なのだと気づきました。

そこで話を聞いていくと、トレーナーになるためには必ずしもスポーツが特別にできないといけないわけではなく、指導するための知識や技術を身につけていけば良いということを教えてもらい、自分の中でようやくこれだ!と思う道が見つかったと思いました。

大学中退とトレーナー時代

思い立ったら一直線で、大学を中退し、引っ越す前まで住んでいた福岡に戻ってスポーツジムで働きながらトレーナーの勉強を始めました。

今思えば、両親から大学まで通わせてもらっていたのに迷惑と心配ばかり掛けてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいですが、その当時は自分の思いばかりでそこまで気が回りませんでした。

まだまだ未熟者ですが、少しずつでも両親に恩返ししていきたいです。

トレーナーとして働くのは仕事の成果を自分の目で直接見ることができる、直接感謝される、とても充実したものでした。

そしてこのトレーナー時代に後の妻となる女性に出会いました。

妻との出会い

その女性は私がそのスポーツジムで働き始めてすぐ後くらいに働き始めました。私の第一印象は一目惚れ…ではなく何だか男前な人が入ってきたなぁと思っていました。

実際見た目も中身も男前な感じの人なのですが、時折弱い所を見せることがあり、可愛らしい、守ってあげたいと思うようになりました。

社内恋愛なので表向きはバレないようにしていたのですが、店長以外のほとんどのスタッフにはバレていました…。

交際自体は順調だったと思いますが、彼女は離婚歴があり、出会った当時3歳の女の子の子供がいました。私は小さい子供と接する機会はこれまであまりなく、子供は苦手かなと思っていたので、その子と顔を合わせるまで心配でした。

初めて彼女と娘さんと3人で公園で遊んだ日のことは今でもよく覚えています。途中で私がトイレに行ったのを帰ったしまったと思ったらしく、娘さんが大泣きしていたのを見て、子供って可愛いものだなぁ、いいものだなぁと思いました。

この経験が自分の子供に対する苦手意識をなくしてくれました。仕事のスポーツジムでしている子供のスイミングスクールの指導も苦手だったのですが、それ以降それも楽しくさせてもらえました。

彼女と娘さんとの将来を考えていくと親戚関係はどうだろうかと気になっていました。私の両親は最初に報告した時は反対していましたが、一度彼女と顔を合わせた時にとても気に入ったらしく、それ以降は反対されることはなく、色々と援助してくれました。

そして出会ってから約2年後に晴れて結婚しました。私が24歳、妻が31歳、娘が5歳の時でした。

2023年になり、今年で私は39歳になります。5歳だった長女も20歳になり社会人です。それから14歳で中学2年生の長男と11歳で小学5年生の次女がいます。お陰様で子供3人とも仲良く元気にしています。

治療家を目指して

トレーナーとしての仕事は充実はしていましたが、だんだんそれだけでは解決できないお客様の悩みが増えてきました。それはお身体の不調です。

体力をつける、体型を変えるなどトレーニングは素晴らしいものですが、腰が痛い、膝が痛いなどの不調はトレーニングだけではなかなか解決できないことも多かったのです。

そこで次に学びたいと思ったのが治療法です。その為には実際に治療の現場に行きながら勉強したいと思い、整骨院で働きながら勉強を続けていきました。

治療法にも様々なものがありました。患者様のお悩みを解決できてほっとしたり、なかなか改善が見られず悩んだり、試行錯誤の日々を送っていました。そんな時に一人の治療家に出会います。

 

井手先生との出会い

開業する前に別の整骨院を見てみたいと思っていらっしゃった現在のいで整骨院の院長である井手和広先生がたまたま私が働いていた整骨院で一緒に働くことになったのです。

井手先生はこれまで見てきた治療家の先生達以上に患者様を何とかしてあげたいという思いが伝わってきました。これが本物の治療家なのだと思いました。

もちろん長年の経験からくる知識や技術も素晴らしかったのですが、治療家にとって何が一番大事なのかをこの時教わることができたと思います。

その後私は別の治療院でまた勉強の日々を送ることになりましたが、井手先生がいで整骨院を開業された後に一緒に働かないかと声を掛けて下さったのです。

 

いで整骨院に来てから現在

井手先生の元で働けるというのはとても楽しみでもありましたが、要求されるものも高いだろうと気を引き締めていかなければと思っていました。

井手先生は一つ一つ治療家としての技術から心構えを教えて下さいました。

どうしても治療の技術に目が行きがちですが、それ以上に患者様への思いやり、心配り、そういった積み重ねが患者様のお悩みを解決することに繋がるということが身をもって体験させて頂いています。

いで整骨院に来て2023年で10年になりますが、これまで以上に中身の濃い有り難い日々を送らせて頂いています。少しでも患者様のお悩みの解決の手助けをさせて頂けるように全力で取り組んでいきます。

長文になりましたが、最後まで読んで頂き有難う御座いました。これからも皆様よろしくお願い致します。

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